ADR考(2)

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 今朝は晴れで、昨日オープンしたデスカウント・ドラッグストアに買い物に行った。そして、会員登録をした。たくさんの人が行列をなし、レジの清算を待っていた。店のオープン時はいつもそうである。

 ところで、スラップ訴訟について、橋下徹氏から訴えられた岩上安身氏が、外国人特派員協会で記者会見していたことを、ツイートで見つけた。そこでは、岩上氏の憤慨と窮状が綴られている(上記記事)。

 

 

(ADRの検討対象)

 とはいうものの、行政型・民間型ADRは事件数も少なく、かつその歴史も司法型に比べて浅い。そのため、多年にわたる裁判所の理論面及び実務面での研究成果(ただし、簡裁における民事調停に関しては理論面での研究成果は家裁における家事調停に比して、少ないように思われる。)を参考にして、ADRの在り方を検討せざるを得ない。

 司法型ADRは、広義として、裁判上の和解(即決和解及び訴訟上の和解)もある。とはいえ、民間人を含んで構成される調停委員会の実施する調停の方が、事件数も圧倒的に多い。

 それは、とりもなおさず、民事・家事調停(民事調停法、(現)家事事件手続法)がADRの検討対象として重要な指標となろう。

 

(調停の本質ー司法型を中心として)

  司法型における調停には、その本質として、従来、裁判実務家からは、調停は裁判であるとか、判断権者が判断するものであるという「調停裁判(判断)説」が主張されて来た。

 他方、多数の学者から、調停は、当事者双方の契約(合意)を本質とする「調停契約(合意)説」が主張されて来た。

 これらの相違は、当事者の自主的合意形成に対し、判断権者の果たす役割・関与の強弱の捉え方によるものと思われる。

 確かに、調停委員会又は裁判官が承認しなければ調停成立はあり得ず、また、当事者の合意のない調停は、本来的にADRとして捉えられないものと思われよう(注3)。

 行政型・民間型ADR調停の紛争解決の実質として、判断権者として判断(裁判)の余地を考えることは、「裁判することが裁判所の専権事項」であることを考えると、調停について、当事者の自主的合意形成に対する仕切り役としての任務しかないというべきである。よって、調停合意説を採らざるを得ない。

 このことに併せて、もし司法型ADRが調停合意説を採らず、調停裁判(判断)説を採るのであれば、行政型・民間型と司法型を統合して同一次元でADRを考えることは論理的に困難なように思われる。

 そこで、両者の接点を導き出すのに、調停の本質は、調停合意でもあり、調停判断でもあるという折衷説(梶村太一教授)の見解が注目される。

 そうすると、行政型・民間型ADRにおける調停の主役が当事者であることについて問題はあまり生じない。しかし、司法型ADRにおける調停の主役は、判断権者なのか、当事者なのかが、次に問題になってくる。

 

(注3)

 この点、家事事件手続法277条審判事件における「特殊調停」、及び同284条審判事件における「調停に変わる審判」は、司法型ADRの領域を超えたものとも推断される。

 これらを捉えて、調停裁判説又は調停判断説であるという結論を導き出すのは、様相が異なり、即断は禁物と考える。まさに、このことこそが、司法型たる所以とも考えられる余地がありそうゆえ。

 

(次回に続く)