ADR考(3)

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 今朝も車のフロントガラスに霜がこびりついていた。相変わらず、晴天なれど、底冷えのする寒さである。

 上記は、岩上安身氏の反論に対する、橋下徹氏の再反論で、大阪簡裁に名誉棄損で訴えた理由が述べられている。しかし、岩上氏に事前警告をしなかった理由は触れられていない。

 

(司法型ADRに突き付けられる課題)

 調停の主役は誰になるかについて、情緒的な権威主義又はお上意識(注4)からの脱却を目指している昨今の司法制度改革の状況からして、法的権威に裏打ちされた公平性・透明性・専門性をもった、あくまでも当事者を主役として、調停運営をなすべきと考える。

 そうであれば、法的効果の点で相違があるとはいえ、基本的に、司法型も行政型・民間型調停も、ADR一般に共通する制度として捉えることができる。

 そして、将来的課題として、司法型ADRを縮小しADR制度自体を行政型(独立行政法人)・民間型に統合していくことが、一般庶民にとっての利便性に資するメリットが大きいと考える余地も出てこよう。

 ところで、通称・ADR法(裁判外紛争解決手続の利用の促進に関する法律)1条は、ADRの基本理念及び国等の責務を規定している。その解釈として、司法型調停及び行政型・民間型のすべてに適用があるとする、山本和彦教授の見解(広義のADR)がある。

 他方、「民事調停法・家事調停法という別個の手続法の適用を受けることから、司法型は除外されると解される」(日本弁護士連合会ADRセンター編集の「最新ADR活用ガイドブック」平成18年11月30日ー7頁)との見解(狭義のADR)もある。

 上記狭義のADRからは、民事・家事調停は、ADR法の適用がない裁判所の手続となりそう。他方、広義のADRからは、司法型・行政型・民間型ADR共通の位置づけが見い出される。

 その両者の見解について、ADR法の条文には「訴訟によらずに」とあることから、文理上、後者の見解が妥当であろう。

 また、より積極的に考えると、司法型が従来から幅広く国民に利用され、問題がなさそうに見えるが、それにもかかわらず、ADR法の適用を受けるという意義には、従来の司法型ADRと異なった新しい視点(国民と同一目線)に立った調停運営が期待されているものとして理解することもできよう。

 あらゆる法的紛争にとって汎用的である司法型ADRに対し、現在の行政型・民間型ADRは特殊限定的な紛争解決(消費者生活・交通事故・マンション紛争等)にしか対応できておらず、民事・家事事件一般については、質・量とも裁判所が主流である。

  なお、弁護士型ADRは民亊・家事一般を含み汎用的とはいえ、事件数が少ない。

 もっとも、行政型・民間型の紛争解決手続としては、司法型に比して、「相談、示談、あっ旋、調停、仲裁、裁定、筆界特定」があり、多種多彩な選択肢がある。

 そこで、多様な紛争解決手続を有する行政型・民間型を中心に据え、調停・即決和解・訴訟上の和解しかない司法型を限定して、ADRを考えてみる余地はある。また、限定しないまでも、当事者に選択の余地を残し、国民に幅広くかつ容易に紛争解決の場的提供を与え、利便性に資する必要性は高いと思われる。

 この場合、調停(和解)等の効力として、執行力を付与し、事の成り行き如何にかかわらず、申立時に時効中断を認める等の法的効力を与える方向性で考えるべきである。

 また、司法・行政・民間型の三者間には、順位をつけず同列に扱うのがベターであろう。裁判所はあくまでも、終局的紛争解決主体として位置づけ、裁判所本来の任務である「裁判」することに専念させることが肝要であろう。

 そこまでに至る紛争解決過程は、可能な限り行政・民間に任せる手立てを検討する方が、訴訟社会の到来による裁判所の負担の軽減化・裁判事務への専念化に資するものと考える。

 そのためには、今後の行政型・民間型ADRの隆盛が必須の条件となろう。

 

(注4)

 和田仁孝教授の論考である「司法書士独自型ADRへの期待と課題」(司法書士2009.1)46,47頁には、「わが国の文化的背景に・・・権威的な第三者に対する依存傾向」の感覚又は意識があり、さらに、「日本の特徴は、司法そのものが実は行政と余り変わらない、お上的な閉鎖構造という特性を強く有していると思う。」との感想を述べている。

 また、廣田尚久氏の「民事調停制度改革論」(信山社、平成13.5.10)113頁には、「裁判所における調停は上から組み立てられている」とし、さらに、115頁では、「裁判所における調停はピラミッド型の司法行政に組み込まれていて、その限界を越えることができない。」と述べられている。

 

(次回に続く)