ADR(裁判外紛争解決手続 ー調停ー )考
昨朝は霜が降りていたけれど、今朝は霜はないものの、相変わらず寒い。天気は晴れの日が続いている。
今回から、連載で、ADR(Alternative Dispute Resolution)を考えて見ることにする。というのも、最近特に、弁護士から、抜き打ち的に、いきなりのSLLAP(不当又は恫喝?)訴訟提起(相手側の言い分)がなされる記事が散見されるからである。news.nifty.com
(はじめに)
司法型調停を中心とするADR制度について、調停の本質から、国民にとって重視されるべき現代的紛争解決方法に適合するADRとは、どういうものかを考えて見ることにする。
(ADR拡充の背景)
➀身体的・精神的労力、➁経済的負担、③制度利用の利便性の悪さ,④司法当局 は、市民にとって身近で開かれた裁判所を目指し、励行しているとはいうものの、一般庶民の目には、少なくとも法務局や市役所等とは異質(敷居の高さ等)のように映っているものと思える、⑤そもそも、司法型ADRとしての調停は、非訟事件であり、本質的に裁判所がその役割を担わなければならないものではないとも考えられる(廣田尚久著「民事調停制度改革論」80頁ー信山社平13.5.10ーにおいて、「ADRは司法の範疇に入らない」旨が記述。)、⑥歴史的に代替する適当な機関が見当たらないことから、調停機関の役割を担っているものとも思える。
と同時に、司法型ADRも調停委員等の調停関与者の権威主義化(注2)及びお上意識からの脱却による自己意識改革が不十分であるならば、場合によっては、司法型ADRの縮小又は行政型(独立行政法人)・民間型ADRへの移行も検討されなければならないと思われる。
(注1)
ADR理念の多元性として、和田仁孝氏は、「➀裁判所ケースロードの軽減、➁正義へのアクセス拡大、③広範な救済の提供、④専門的紛争解決への要請、⑤日常感覚的ニーズへの応答、⑥紛争処理を通したコミュニティの再構築」(小島武司編・ADRの実際と理論Ⅱ・25頁ー中央大学出版部2005.3.15)を挙げているが、昨今のADRの充実促進の要請は、➀が主であると考える。
石川明氏は、ADR整備の必要性について、「裁判所の負担軽減機能」を力説する(同上Ⅰ・3頁~8頁)。とともに、小島武司氏の提唱する司法純化モデルと汎司法純化モデルに関し、「基本的には司法純化モデルを採用する可能性は十分考えられる。」、しかし、「司法純化型を徹底する必要性は認められず、調停をも裁判所から排除する司法純化モデルの採用は考えにくい(同上14頁14,15頁)。」としている。
なお、司法概念につき、ADRを除外すべきで、「裁判所が調停を直轄するからといって、調停を本来の司法の一作用とみることはできない。」(同上5頁)としている。
(注2)
「千慮の一矢、千慮の一得」(権威も間違うことはあり、非権威が正しいこともあるので、安易に権威に飛びつくのではなく、双方の主張を聴き、情報を集めて正誤を正しく判断しなければならない。)という諺は、権威主義が公正でないことを示す一つの例え(フリー百科事典「ウィキペディア」(2007.9.6UTC版参照))である。
この場合の権威とは、社会的権威を意味し、法的権威に直結しないと考えるべきだろう。そもそも、当事者の真の自主的合意形成にとっては、権威との関わりは不要なものと考えるべきである。そうであれば、法的権威といえども。安直にそれを振りかざした権威的調停は感心できないと言える。司法型調停は、得てしてその傾向に走ってしまう危険性を常に内包している。調停運営はあくまでも、当事者が主役であり、調停運営者はあくまでも脇役であるべきである。もっとも、合意の内容に、「公序良俗・強行法規違反等」があれば、調停運営者が消極局面で、主導的な役割を果たさなければならない場面はある。
(次回に続く)